承認欲求を否定する

   

どこのアドラーのホームページを見ても必ずと言っていいほど書いてある「承認欲求を否定する」って言葉を考えてみたいんだよ。多くの人は「承認」(良く評価される事)をされれば、気持ちよくなると思うんだよ。僕だって良く評価されればうれしいんだよ。でも、アドラーは「承認欲求を否定」しているんだよ。そこで、どういう事なのか「承認欲求の否定」について、考えてみたいんだよ。

アドラーは承認を否定していない

世の中、褒められたら嬉しい人が大半だと思うんだよ。子供の頃を思い出すと、親に褒められたり先生に褒められたり…僕はかなり褒められると照れくさかったんだけど…基本的には嬉しかったんだよ。大人になっても、子供を褒めた時の笑顔を見てると、こっちまで嬉しくなっちゃうんだよ。

アドラーは「承認欲求を否定」してるんだけど、承認されたから喜んじゃいけないって事を言っているんじゃないんだよ。そんなことされたら、一次感情の抑え込みになっちゃうからね。そういう意味で、「承認は否定してない」と思うんだ。じゃアドラーは何を否定しているかと言うと「承認欲求」なんだよ(笑…読んで字のごとく…)「承認欲求」と言うのは、承認を求める事だよね?つまり、「承認を求めることを目的に置くべきではない」って言っているんだ。

承認を目的に行動しない

なんで、アドラー「承認を求めることを目的に置くべきではない」って言っているのかな?それはアドラーの「全ての悩みは対人関係にある」って事から来ていると思うんだよ。まず、承認を受けるためには承認をしてくれる人が必ず必要になるんだよ。と言う事は、承認を目的に行動している限り、対人関係を回避することが出来ないので悩みから解放されないって事だと思うんだよ。

しかも、それだけじゃないんだよ。承認を受けるためには「他者を蹴落とす行動をとる」必要があるんだよ。これを一般的には「競争」って言ってるよね。これは、前回話をした劣等感にもつながっていて、「自身を大きく見せる」必要があるし「他者を小さく見せる」必要が出てくるんだ。こつまり、承認欲求とは「劣等感を直視出来てない」って言っても過言ではないと思うんだ。

別視点で見てみると、承認欲求を目的にしてしまった時に、すべての人から承認を得ることは不可能なんだよ。これは人数的な問題もあるけど、むしろ全会一致で承認って事はあり得ないって事なんだ。たとえ承認してくれる人が多くても、必ず反対を唱える人は居るんだよ。つまり、すべての人から承認を受けるのは不可能なんだ。それも、反対を唱える人は賛成派が気付いていない別の観点を探り当てると言う、重要な役割を持っているんだよ。その、重要な役割を排除することは、独裁につながりかねないんだよ。

何を目的にするか

これは、目標評価でも書いたことなんだけど、「自身がどうなりたいか」を追求し続ける限り、承認欲求から逃れることが出来ないんだ。「どうなりたいか」という言葉から「他者と比較して」と言う意味合いを取り除くことが難しいからなんだよ。「他者と比較して」の意味合いを取り除くためには「自身は何をしたいのか」を目的にする必要があるんだよ。

いきなりそんなこと言われても難しいと思うんだよ。少なくとも日本では「どうなりたいか」を目標に設定する様に教育されてきているからね。子供のころは「医者になりたい」でも良いと思うんだよ。医者になった後「たくさんの人を救いたい」って変わると思うからね。これを読んでいる人は皆大人だと思うので、今からでも「自身は何をしたいのか」を目標に掲げてほしいんだよ。

褒めない?叱らない?

前出で日本の教育の話をしたんだけど…子供の育て方で最近は「褒めて育てる」って流行ってるよね。社会人になっても部下に対して「褒めて育てる」って話を良く耳にするんだよ。他のホームページを見てみるとアドラーは「褒める」と「叱る」を否定していると書いているんだよ。なんで、アドラーは「褒める」「叱る」を否定している(本当にアドラーが否定しているかどうかは怪しいけど…)のか考えてみたいんだよ。

たしかに「褒める」「叱る」と言う行為は、ホスト(「褒める」「叱る」を実行している側)の価値観をクライアント(「褒める」「叱る」をされている側)に押し付けかねないんだよ。ホストとクライアントの関係を客観的に見てみると、ホストはクライアントの上位からホストの価値観に則って評価しているって言えると思うんだ。もし、ホストが「褒める」「叱る」を継続的にし続けると、クライアントはホストの価値観で判断する習慣が付いてしまう可能性があるんだよ。つまり、クライアントをホストに対する承認欲求に束縛させる可能性が高くなるって言えるんだよ。

ただ…「褒めない」「叱らない」を冷静に考えてみると、他者の承認欲求にかかわる部分だって事に気が付けると思うんだよ。他者の承認欲求となると、それは他者の課題であるって言えると思うんだ。これって、課題の分離の話なんだよね。でも、「嫌われる勇気」にも紹介されているイギリスのことわざである「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」を考えると、「褒めない」「叱らない」は「馬を水辺に連れていく」行為に当たるんじゃないかなと思うんだよ。

ちょっとだけ話を戻して僕がなんで「本当にアドラーが否定しているかどうかは怪しいけど…」って言ったかと言うと…アドラーのエピソードに「子供の片づけ」の話が有るんだよ。複数の書籍に載っているので本を読んだ人は知っていると思うけど…簡単に言うと「おもちゃを散らかした子供に対して「上手に散らかしたね。じゃ上手に片づけられるかな?」って言ったら子供があっという間に片づけたって話なんだ。「これ!褒めてるじゃん!」って僕は思うんだよ。そういう意味で、アドラーが否定しているのは「褒める」「叱る」ではなくって、もっと別の意味があるんじゃないかなって思っているんだ。

「褒めない」「叱らない」の代わりに何をするのか?

「褒めない」「叱らない」を実践するとして、じゃなにをすれば良いのか?って話はアドラーの心理学をかじっている人なら分かっていると思うんだ。だた…「褒めない」かわりに「感謝を伝える」と表現されていることが多いけど、「叱らない」に対して何をすれば良いかの明確な回答がなかなか見つからないんだよ。

僕が思うのは「叱らない」かわりに、「自分の価値観に基づく選択肢を提示する」ないしは「静観する」ことだと思うんだよ。つまりこれはアドラーの言う「馬を水辺に連れていく」ってことなんだよね。「自分の価値観に基づく選択肢を提示する」ことについては、強制せずに他者の価値観を尊重しているって感じなんだよ。じゃ「静観する」って言うのはどうなんだろう?僕が思うに「自然に水辺に近づきつつある状態(いつか改善しないといけない状態)にあるときは静観する」って事なんだと思うんだ。どちらにしろ、叱られるような事をしている時にその課題は他者にあり、責任を取るのは他者であるって事なんだ。

ちなみに子供のやった失敗の責任は親にあるって言うけど…もちろんその通りと思っているよ。でも、失敗した子供に責任を取らせるのも親の責任だと思うんだよ。

まとめると…

  • 褒めたい時 - 感謝を伝える(一次感情を伝える)
  • 叱りたい時(一過性) - 自分の価値観に基づく選択肢を提示する(強制はしない)
  • 叱りたい時(継続性) - 静観する

って事だと思うんだよ。

長くなったけど…世の中は褒められて嬉しい人ばかりではないと思うんだよ。褒められると馬鹿にされたと感じる人がいるのは確かなんだ。ただ…そう思う人って承認欲求にとらわれているんじゃないかなって思うんだよ。何故かと言うと…「褒めてくれた人より自分の方が優れている」と思い込んでいるんじゃないかなって思うからなんだよ。じゃ…承認欲求から開放された人たちはどう感じるか…それは「感謝」なのかもしれないね。


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