ホスピタリティとアドラー心理学

うちの会社ではホスピタリティを社長を筆頭に全力で推進しているんだけど…まえから少し違和感を感じていたんだ。この僕が感じている違和感をアドラー心理学を使って明確にしたいと思うんだよ。ただ初めに断っておくと…ホスピタリティを否定したいわけじゃないんだよ。

ホスピタリティって何?

まず、ホスピタリティって何かって事を理解しないといけないと思うんだ。ホスピタリティって言うのは、日本語に訳すと「思いやり」とか「おもてなし」って訳されているんだよ。でも、ホスピタリティの理解を進めていくと、「思いやり」とか「おもてなし」って言葉では不十分って感じるようになってくるんだ。ちょっと、ネットに掲載されている文を抜粋してみるよ。

  • 相手に不快感を与えないための最低限のルールです。そこに「心」が加わると、ホスピタリティになります。深い心地良さが加わることで、信頼や信用、安心感が生まれます。
    (「ホスピタリティの極意 – ホスピタリティとはいったいなんでしょうか?」から引用)
  • ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する。
    広義の定義では、ホスピタリティが主人と客人の二者間の話にとどまらないことを言っている。社会全体に対して、その構成員である人々が、ホスピタリティの精神を発揮することで、相互に満足感を得たり、助け合ったり、共に何かを創りあげることができ、それによって社会が豊かになっていくという大きな意味でもホスピタリティは重要である。
    (「日本ホスピタリティ推進協会 – ホスピタリティとは」から引用)

アドラーの心理学を学んでいると、なんだか聞いたことある言葉が並んでいるような気がするんだよ。「思いやり」って言ってしまうと、1対1の二者間の関係性になりがちなんだけど、「ホスピタリティ」って言葉はそうじゃないって言っているんだ。抜粋では「社会全体に対して」って記載されているけど…アドラーの言葉を借りて言えば、ホスピタリティは「身の回りや家族・企業・国家と言う小さな世界ではなく、より大きな世界(地球・宇宙・空間?・時空?と言ったモノ)に対して、「一体感」「信頼感」「貢献感」などを持った方が良いと思うよ」って言ってるんだよ。

つまり、ホスピタリティと言うのは、アドラー心理学の「共同体感覚」の事だったんだね。少しすっきりしたんだよ。

ホスピタリティに対する違和感

多分ここからが僕の違和感だと思うのだけど…ホスピタリティを「思いやり」って安易に理解してしまうと、少し違和感を感じるんだよ。「思いやり」って意外に外面的な言葉だと思うんだ。「あの人は思いやりのある人だ」って言う事はあっても、「自分は思いやりのある人だ」って冗談でもない限り言う事は無いと思うんだよ。

目的論から考えると、何を目的に「思いやり」を発揮しているかって話なんだ。もちろん「貢献感」を持つために発揮している人は多いと思うんだよ。でもそれが「承認欲求」の人だと「思いやり」をした相手やその姿を見ている人に認められたいと思っていたり、「共同体感覚」が弱い人は「思いやり」が自己満足や自慢の種のためだったりすると思うんだ。そんなこと無いって声が聞こえてきそうだけど…もし、相手に不快感を与えるような「思いやり」をやったことがある人がいたら、少し自分を見つめなおしてみるのも良いかと思うんだよ。

それにしても…「共同体感覚」って言葉…もうちょっとどうにかならないのかな…?「共同体感覚」って言っちゃうと「貢献感」その他諸々の意味がすっぽ抜けちゃうと思うんだよね。例えば「全体協働感覚」とか…広義の意味で「協働」って結構いい感じだと思うんだよね。

参考サイト

ホスピタリティの極意 – ホスピタリティとはいったいなんでしょうか?
日本ホスピタリティ推進協会 – ホスピタリティとは